『ライフデザインするということ』
ライフデザインという言葉は最近良く使われる言葉だが現実にライフデザインをするということがどういうことを意味するのかについては意外と個人個人の認識がバラバラではないだろうか?
私は、ファイナンシャルプランニングに関わる話の前段でよく次の様な式を使って説明していることがある。
CD ≦ LD = FD
CDはキャリアデザイン、LDはライフデザイン、FDはファイナンシャルデザイン(ファイナンシャルデザインは私が勝手に使っている言葉であるが)のことである。この式の意味するところはこうである。
① 人生、何事にもLDが大事であり、これは個人の価値観そのものである。
② CD(ここでいうキャリアは個人の社会的役割全てを含めた意味で使っている)はLDのなかでも重要な位置付けであり価値観そのものか価値観を含めた概念に既定される。
③ FDはLDそのもの、すなわち価値観に既定される。
④ 但し、この不等式は個人個人千差万別で色々ある。
大切なことは、今後の不透明な将来を生きていく中では自分なりの価値観をしっかり認識することだということである。
人間の脳は、様々な度重なる経験を整理しながら記憶していくそうである。整理をしていくなかで現実の生活に生かすための生活知と社会生活全般に関わる概念的な世界知を形作っていくのだそうだ。価値観とはその生活知と世界知のバランスの上に成り立つ人生に必要な智恵ではないだろうか。そうであれば大上段に構えなくても一生懸命人生を生きていくなかでその人なりの価値観が形作られていくのだろう。本人が意識できているかどうかの違いである。
50歳を過ぎてから特に思うことがある。それは私達の毎日の行動は、実は、到達したいゴールから逆算して今何をすべきかという考え方に縛られ過ぎているのではないかという思いである。ゴールが見えそうな年代になったのに自分のゴールが霧の中に見え隠れすることがあるし、はたまた自分にとってのゴールとは?と惑いと自問自答の毎日である。
例えばFPコンサルティングにはまさに逆算の思考が必要である。
クライアントの夢の実現を目指して何歳までに何をどうしたいかライフプランニングで目標を設定してキャッシュフロー分析をして現状からその目標に向かって毎日をどう行動していくか。
何歳までには何をどうして、子供の教育費はどうして、住宅ローンはこうして負担を軽くして親の介護はこうして自分達の老後はどうしてこうして・・・・・・。この連続である。悪いことではない。論理的に考えれば当たり前の考え方であるし、それに基づく行動が一番理に叶うのである。
でも50歳を過ぎて自問自答が多くなったのである。
それはFPのくせに、あなたのライフプランニングがきちんと出来ていないからだと言われそうだが・・・・・。現に家の奥さんにはそう言われている。
キャリアカウンセリングの理論で「計画された偶発性理論」(Planned Happen Stance)というのがある。私はこの考え方が好きだ。今までの自分の人生はまさにこれだ。自分なりに大きな方向性を見定めながらベクトルは合わせてきたつもりだし、その中で起こった偶発的トランジションをその都度自分なりに活かすような選択が出来てきたと思っている。
それなのに・・・・・である。
今現在の私の人生は逆算の人生に縛られ過ぎているのではないだろうか?
FPも知らず知らずのうちにクライアントの思考や時間を縛り過ぎているということはないだろうか?逆算の発想はそのクライアントにとって本当に人生のいい時間の使い方に繋がっているのであろうか?
一人一人にあった生き方や時間の使い方があると思うし、それこそが一番大事にするべき価値観ではないだろうか。
今まで歩んできたベクトルとは違う方向への第一歩は誰しも躊躇するだろう。ある程度高めの目標設定をして自らに負荷を掛ける必要性も、またゴールを設定し理屈どおりに進めていけば目標に到達するであろうことも皆わかっているのである。そしてそれは、今、この時の一つ一つの行動を重ねることによってこそ成り立っていることもわかっているのだ。だからこそ目標に向かって逆算の時間を過ごしているのだ。しかし、それが一人一人にとっての本当の人生の時間と言えるのだろうか?
ライフデザインを画くこともそこから逆算による目標を設定することももちろん大事なことだろう。しかし、もっと大事なことはそこに向かって今この時を大事にした行動を自分の周りの人達との関わりの中で未来へ向かって積み重ねることではないかと思う。結果が画いたデザインと違ってきてもそこに新たな価値が生まれるのではないだろうか?そしてそこに社会的存在としての自分の人生の時間があるような気がする。ライフデザインをするということはその為の準備をするということではないだろうか。
2007年1月